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渡邉恒雄の戦争と政治

独裁者に見られている彼の半生について

 最近、彼に関する本を読みました。内容としては、私のイメージしていたのと違いました。なので備忘として簡単にまとめてみました。人によって見え方が様々ですが・・・

 

 1943年東京帝国大学の哲学部に入学し、その直後学徒出陣要請を受ける。ちなみに大学入学前は、軍国主義を推進する学校の指導者に対し反発していた。

戦争激化に伴う出陣を受け戦局的に戦地に行くイコール戦死する可能性が高かった為、友人に対し戦死した際に流す音楽を友人を集め伝えたとの事。覚悟があった事が伺える。

 入隊後、陸軍砲兵連隊で上官から酷い仕打ちを受ける。その過程で内実なき精神論に日本の病理を感じ始める。それから、しばらく経った1945年8月15日乗っていた電車が急に止まり、玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書)で戦争が終わった事を知る。その時の回想録で久しぶりに風呂に入った際に身体に付いていたシラミを殺せた事が特に印象に残っていたそうです。

 

ターニングポイント

 この時の実体験が基となり政治の過ちが国家の悲劇を招く事を学んだ。それと同時にそれを先導した者の責任を問わない事には再び同じ事が起こる事を感じた。ここが彼の信念に繋がる部分と感じる。

 

 1945年の終戦直後、ナベツネは東京大学に復学した。同時期、強靭な知性を武器に日本を変えるため日本共産党に入党した。

 入党後2年経過したタイミングで、組織第一主義への疑念を感じ離党する。共産党に入った事で権力掌握術や集団指導技術を得られたと回想している。その後、読売新聞社へ入社する。その時は、まだGHQの占領下であった。ちょうどその時期は、公職追放で鳩山一郎、岸信介らが辞めさせられている。ちなみに、岸信介は、開戦のサインをした人の一人でもある。そのゴタゴタの中、日本は反戦・反軍で軍部と戦った、吉田茂が権力を握る。ちなみに池田勇人、佐藤栄作は、吉田の子分。

 

 ナベツネは、1952年政治記者となる。そこで、多くの政治家と関わるが、戦争にも関わった鳩山一郎の懐に入るため足繁く自宅に通う。理由は、総理大臣になる可能性があった為との事。最初は、冷遇されたが最終的には、家族同様に家中を自由に入れたようだ。

 そして、1955年文化的民主国家の成立を掲げ自由民主党が結党された。この当時自民党内の権力移行は早かった、鳩山一郎から石橋湛山、そして岸信介へと総裁が変わる。当時は、金と数がモノを言う政治で現生が飛び交っている場面をナベツネは目撃する。しかも、本人達は隠そうともしなかったらしい。

 

 1960年日米安全保障条約の改定。当時は、反米思考であり安保闘争が激化した。運動は、空前の広がりと共に世間は混乱し岸信介はその責任を取り辞職した。その後、池田勇人総理となる。政治の主役がついに経済と生活となる。彼は、戦前大蔵省で金回りを担当。敗戦後、責任を感じ辞職の経歴あり。その経験もあり、国民が金銭的にも豊かにするべく所得倍増計画に尽力した。

 

 この頃のナベツネは、政界の父と慕っていた人が次々と失脚や裏切りに合うのを見て政治の非情さを感じる。渡辺は、この頃から記者の枠を超え政治家との関係を密にし、それは人事まで影響力を高める。周りの政治記者からみるとその存在は、異質だったとの事。

 

 だましてだまされる世界。玄関組と奥座敷組を超え存在。それが、ナベツネ。根底にあったのは当事者として問題に向き合っていた結果がそうなっていたのが正解だろう。

 

 1960年代大きな問題は、アジア諸国との国交問題。特に韓国との関係改善が問題だった。1962年ナベツネは、韓国との二国間交渉内容を独自スクープとして出す。ちなみに密約書を見て記事を出したとの事であった。ナベツネは、この頃当事者としても深く関与し、関連者曰く一記者の範囲を超えるどころか、とうとう国交レベルまでその影響力は及んだ。

 

 1965年日韓基本条約を締結。当時を遡って調べるとナベツネの説明が一番腑に落ちるようです。何故なら暗躍していたからです。1970年GNPが世界第二となる。そして、戦後生まれが現役世代となる。ナベツネは、一政治記者から部長となり、中曽根康弘と同友となり後の総理大臣の座を見据え付き合いを濃くしてゆく。毎週、土曜日読書会していたようです。理由は、中曽根がタカ派の考え方だったのでその思想を変える為、哲学を叩き込む事が目的だったようです。

 

 ナベツネのススメで一時100名にも及ぶ派閥を持っていた田中角栄との付き合いが始まる。

 中曽根康弘は、田中角栄の目白にある自宅へ門を叩き食事を共にした。彼とは当選同期であり、お互い戦争の最前線で戦った経験があった。そして、心を通わせ田中・中曽根同盟が結ばれ1982年の中曽根総理大臣が生まれる原動となる。

 

 靖國神社公式参拝は、遺族のいた中曽根総理から始まった。ちなみにナベツネは、それを止めたそうです。5年間の中曽根政権が終了後1991年ナベツネは、ついに読売新聞の社長となる。そして、2020年彼は94歳の今でも読売新聞で代表取締役主筆で戦争を知るジャーナリストとして戦争を語り続けています。

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靖国神社の第二鳥居と神門

 

 近年、時代の経過と共に新たな世代へと政治の世代交代が進んでいます。戦争と言うアジェンダが政治のベースを担っていましたが、それから次のアジェンダが明確に無く、行き詰まり現象が現在発生しています。

 

今後の政治を担う者は、どういう形となるか。戦争犯罪、戦争責任から今後、日本社会を結び直すものは、何でしょうか?

 

明日は8月15日。終戦の日です。

 

番外編

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米軍払い下げ品を売る店